松阪商人の商法・理念と暮らし

・才覚(さいかく)
松阪商人の最も重要なキーワードは〝才覚〟です。才覚とは、素速い頭の働き、アイデアや先読みの能力などをさします。三井高利が、「現金掛け値無し」という販売スタイルを打ち出し、貸し傘のサービスなどで店のPRをはかったこと、国分勘兵衛が醤油醸造に目を付けたことなど、松阪商人が商いを展開する上で〝才覚〟を発揮したエピソードは語り尽くせぬほどーー。江戸の金本位・上方の銀本位に着目し、公金為替というシステムを考えたこともその一つです。

・始末(しまつ)
〝始末〟も松阪商人の基本姿勢の根幹をなすものです。始末とは初めと終わりを指す言葉であり、本来は〝収入と支出の適合〟をはかることを意味するのですが、一般には倹約という意味で使われることが多いようです。実際に、松阪商人の店では質素倹約を旨とし、着物は木綿、食べるものも質素、遊びなどは基本的に禁止とされていました。あまりに質素な食生活は、ビタミン不足などにつながり、江戸店の従業人には「江戸患い」にならないよう、注意が促されました。「江戸患い」とはビタミンB1の不足による脚気のことだったようです。

・堅実・信用
堅実な経営で信用を築くことも、松阪商人が重要視した理念の一つです。幕末に松阪の商人たちが発行した私設の紙幣・羽書は、全国的に幕府の発行した紙幣よりも信頼を得ていたといいます。それもひとえに信用のなせるわざでした。良い品を売るという信用が客を呼びますし、大きな金額が動く商いや、幕府の為替御用、両替商などは信用がなければできません。また、商機をもたらしてくれたり、窮地に陥ったときに救ってもらえるかどうかも、日頃の人間関係上の信用にかかっています。信用は、長い時間を掛けて築きあげるものですが、ちょっとした噂などで崩れてしまうもの。投機的な商いに手を出さず、地道な商いを心がけることが松阪商人の身上とされました。長谷川家の支配人は「起請文之事」という文書を書いて、太物(木綿布)の売買を大切に精を出し、他の物には心を動かされません、と誓ったほどです。

・金儲けの意義と社会貢献
江戸時代に主流であった儒学的な考え方では、商いで金を儲けることを卑しいとみる伝統がありました。しかし、松阪の商人たちは、真っ当に働いて金を儲けることは正当だという考えを持っていました。本居宣長は、「成功して富を得ることは親や先祖への孝行である」と言っています。
金を儲けて豪奢な生活を望むのではなく、儲けた金は社会に貢献する使い方をするのが松阪商人の理想です。「売り手に良し・買い手に良し・世間に良し」の「三方良し」が良い商いの目指すところとされているように、松阪商人たちは寺社への寄進や地元の人々の救済などに大金を使っています。また、幕末に活躍した竹川竹斎等は、文庫を公開して地元の人々の教養を深めたり、有意の若者を後援するなど、次の時代をより良いものにするための投資を惜しみませんでした。未来という四番目の方向にも貢献しようとしたのです。 一揆などの暴動が起きた際、豪商の店や館は略奪などの対象になることもありましたし、幕末になると、幕府御用を務める豪商は幕府からは上納金を求められ、勤皇派からは佐幕派とみなされて暗殺対象として名指しされるなどの危険もありました。豪商であり続けることは、単にお金を儲け続けることではなく、社会にそれなりの責任を担っていくことでもありました。

・家訓と店式目
松阪商人の家々では、それぞれ守るべき家の決まりがあり、多くの家では明文化されていました。主とその家族が守るべきものは「家訓」「遺訓」などと呼ばれ、遺言の形で書かれたものもありました。家の在り方や経営理念などその家の哲学のほか、人材の選び方や家を守る方法など具体的な内容に及んでいます。また、従業員が守る「店式目」や「店作法」は、実質的な生活上の細則や心がけることなどこまやかな注意事項があげられており、定期的に皆で朗読するほど重要視されていました。これらの定めを守ったことが、松阪商人の店と家が長く存続できた要因の一つと考えられています。

・記帳と算用
松阪商人の算用意識の高さは、その帳面に伺えます。現存する最古の商業帳簿は 富山家の「足利帳」(元和元年(1615)―寛永17年(1640))で、富山家の年々の財産の増減を記し、人名を上げ、個別に売掛金、貸付金などを記載し、期末在庫品も細かに記しています。また、長谷川家の「算用目録帳」(宝永5年)などは、現代の貸借対照表に対応できる複式簿記の記載がなされています。松阪商人の多くの店でこうした複式帳簿が付けられていました。日々こまやかに帳面を付け、算盤をはじいて計算し、金額を確認していたのです。

・経営と資本の分離
松阪商人は、主は松阪の家に暮らし、江戸や上方などの店は従業員に任せるのが基本的なスタイルです。経営と資本を分離させた新機軸と言えるでしょう。主は、一流の文化人であることが求められ、幼い頃から、書、画、歌や俳句、茶の湯などに親しんで育ちます。10代で商いの修業を終えると、その後は基本的には江戸の店には出ませんでした。けれども、番頭からの手紙や帳簿からいくつもの店を経営管理していくのですから、その責務は重大です。店が大きくなると、親戚や別家などの合議による経営が行われる場合もありました。

・人材重視
遠方の店を他人に任せるのですから、人材を選ぶことはたいへん重要でした。「子供衆」となる少年を採用するときにも、地元の農家の次男など、身元が確かで長く働ける子供を選びました。天保13年(1842)の長谷川家の記録では、江戸5店の従業員117人のうち、113人が飯高、一志、多気など伊勢国出身でした。身元の保証が確実な他に、辞めようとしてもすぐには帰れない距離的な理由があったとも言われます。
一方で、契約などを書面で残すことも重要視し、支配人が決まると、不祥事が起きた際の対処法や、任期が切れたときに渡す金額と利益の率など、こまやかな内容を書き込んだ契約書を交わしたということです。「経営が傾きはじめた場合、まず主家の生活費を切り詰めるよう促す」など具体的な例を挙げ、信頼と協力を契約の文書で明確にしています。
また、働いた年数ではなく実力を重視する傾向もあったようです。ことに三井家は〝人の三井〟〝番頭政治〟といわれるほど人材を重んじ、何人もの先輩を追い越しての昇進もありました。幕末から明治を乗り切った三野村利左右衛門など有名な番頭がおり、明治になってもその伝統は続いて、益田孝、朝吹英二、団琢磨などを輩出しました。また、竹口家でも、南部藩が強行した改革によって危機に陥ったとき、従業員の忠勤と親しい商人仲間の救済によって店の閉鎖を免れたという記録が残っています。

・従業員たちの日常と昇進
従業員は、店を取り仕切る支配人と表奉公人(複数の番頭、手代、子供衆)と、台所仕事などをする裏奉公人の男衆などがおり、江戸店は男性だけで切り回すのが松阪商人の基本的なスタイルでした。表奉公人の採用には、まず親戚や知人などの紹介で選び、松阪の本家で「御目見得」という面接を行い、仮採用を決めました。仮採用が決まると、親や身元引受人は「奉公人請状」を作り、村役人の所へ出向いて藩役所の「奉公許可切手」を申請し、これらを持って本人が江戸店へ行きました。このほかに江戸店には、本家が江戸の所有している不動産を管理する家守衆や江戸店の修繕に関わる鳶や大工、火消しなどの出入衆もいました。
店には「店作法」「店掟」「店式目」などの名前で、生活上の細則があり、多くは「幕府の法令を守る」「人の道に外れない」などに始まり「質素・倹約」「夜遊びをしない」「寄り道をしない」「店の中を乱雑にしない」「火の用心」「健康に留意する」など、店ごとにさまざまなことが決まっていました。店の決まりは、店や世相の変化によって改定され、毎月、決まった日に従業員の会合で店中に読み聞かせるなどして、堅く守られていました。

・子供衆(こどもし)
子供衆とは丁稚のことで、多くは12歳前後で奉公しはじめ、3~5年ほど務めると元服して手代となります。まずは仮採用で店の基本的なルールや符丁などを覚え、後に正規の店員となりました。明け六つ(6時頃)一斉に起床し、身支度を整え、その日の指図を受けて朝食。掃除や履き物、傘等の整備、諸道具の点検などをして、開店中も商品の出し入れやお茶出しなど忙しく働きました。仕事のないときは並んで座り、番頭や手代に「こども~し」と呼ばれると「へ~い」と答えて下の者から駆けてゆかねばなりませんでした。夕方、閉店後は後片づけをし、夕食を摂った後は、読み・書き・そろばんや商品知識を学び、子供衆全員で「火の用心」と声を合わせながら店内を見回りました。その後、子供衆頭から報告や、時には叱責などを受けて、ようやく就寝しました。子供衆は、衣類や食費、病気の場合の薬代などは店が出しますが、無給でした。男ばかりの競争社会での厳しい修業の時代であり、5年の間に、暇を出されたり病気や死亡で半分以上が店からいなくなっています。

・手代
  数年務めると、元服して手代になります。一月の恵比須講の際に元服式を行い、鯛の尾頭付きの膳で店の全員に祝ってもらいます。手代に昇格した者は「二歳衆」と呼ばれ、髪形や服装も大人の姿に変わり、給与も支給されます。手代は中心となる働き手。三井家の呉服店では、手代の名前を書いた札を天井から下げ、その下に当人が座って客に対応しました。人気のある手代は花形で、競い合うように客をさばいていたのでしょう。
江戸店では「在所登り制度」という長期休暇がありました。一定年度勤務すると「初登り」が許され、店からの支度金や上役からの餞別などをもらって家への土産を整え、松阪に向かい、本家や分家などに挨拶の後、実家に帰りました。ここで一旦雇用契約が切れるので、そのまま退職になるものもありました。再雇用されて店に戻ると「登り衆」と呼ばれ、「二度登り」「三度登り」を経て、番頭などの幹部になっていきます。「三度登り」を経て幹部になれるのは、子供衆として採用された20人の内1人か2人だけだったようです。

・支配人と番頭たち
手代から差次買出役、三番役、五等役など、店によってさまざまな段階を経たあと、前支配人などからの推挙を得、主たちに認められて支配人になりました。支配人は、各店のトップです。支配人になるとき、長谷川家では支配人から主へ、「太物(木綿)商いだけを大切にして、店の風紀を守り、米や油などの「とたん商い(投機的な取引)」などを心にも掛けません」と起請文(誓約書)を送りました。また、多くの店では、経営状態が悪い場合や不祥事があった場合の対処法、任期を終えたときの割り付け金の率などこまやかな内容を盛り込んだ契約書を交わしました。任期を終えた支配人の中には、別家などになり、店の経営や主家の家政などの相談役として発言権を有する者もありました。






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