松阪は豪商のまち

江戸時代、江戸や京・大坂にも店を持つ豪商の多くが松阪商人でした。松阪にある本家は地味で質素な造りながら、蔵には千両箱・万両箱が並び、主はその家で茶の湯や書道、学問などに励みながら静かに暮らしました。松阪は今も、豪商の哲学が息づくまちです。

い 一に〝才覚〟 二に〝始末(しまつ)〟 松阪商人が成功した最大の秘訣は、アイデアを活かした〝才覚〟と、堅実に収支のバランスをはかる〝始末〟にあります。豪商といえば悪代官と組んで暴利をむさぼる時代劇のイメージがあり、また、〝始末〟は倹約ととらえられがちですが、利益だけを追求したわけではなく、質素で倹約はするけれども単なる「ケチ」ではありません。そこには松阪商人独特の哲学がありました。

ろ ロマンとそろばん 両立し 日本一の商人になる! 一流の文化人にもなる! 世の中のためになる商いをする! 松阪商人にとってお金を儲けることは、正当な人生の目標であり、ロマンの実現と表裏一体のものでした。夢を胸に商戦を繰り広げた商人たち。熱い心と怜悧なそろばん勘定を両立してこその豪商です。

は 番頭さんともまず〝契約〟  江戸店は従業員に任せるのですから、人選は何より重要。そして松阪商人は契約や文書化することを大事にしました。支配人(総番頭)が決まると、商いが傾いたときや不祥事があったときなどの対処法や、任期を終えたときの割り付け金の率など、こまやかな内容の契約書を交わした店も多かったようです。また、「店式目」などの名で、店ごとにでさまざまな決まりがつくられていました。

に 日本橋でも「ええなぁ」「おおきに」 江戸経済の中心地・日本橋付近には、伊勢国の江戸店がずらりと軒を連ねていました。松阪商人の店の従業員は伊勢国の出身者ですから、「ええなぁ」「おおきに」「そうやなぁ」と、伊勢言葉・松阪弁が飛び交っていたのです。

ほ 歩行術まで体得し  松阪と江戸、京・大坂等への行き来が頻繁だった松阪商人。当時の旅は、陸路も海路も危険と困難が一杯。旅の途中で追いはぎにあったり、船が沈むような災難も多々ありました。往復に要する時間を一刻でも短縮したかったでしょう。江戸後期、射和の竹川家には「神速歩行術」という早歩きの術が伝わっていたそうです。

へ 変化を恐れず時代をリード 時代の変化を先読みし、〝次に売れる物〟を商品化していくのが商いのコツ。人々が何を望んでいるのかを察知し、それに応じて売り方やサービスも変えるなど、時には大胆な改革も恐れませんでした。流行をつくり出し、人々の生活を便利に変えて行く時代のリーダーでもあったのです。

と 殿様のいない城下町 松阪は武将・蒲生氏郷が拓いたまちです。氏郷が会津に移封になった後、松阪藩主は服部一忠、古田重勝と変わり、大坂冬の陣の後から、松阪は紀州徳川藩の飛地となります。徳川幕府によって世の中が落ち着き、松阪には城代は置かれていたものの、殿様は遠く和歌山におられて長らくご不在。松阪は商人たちが力を伸ばし豪商たちが幅を利かせる、城下町でありつつ町人のまちとなりました。

ち 忠臣蔵の浪士立ち寄る 元禄15年(1703)12月14日の未明、赤穂浪士たちは吉良邸への討ち入りの後、松阪商人の「ちくま味噌」の店に立ち寄りました。主の竹口作兵衛は、赤穂浪士の一人・大高源吾と俳諧を通じた友人であり、本懐を遂げた浪士たちに甘酒を振る舞ったと言われています。

り 利益も損もきっちり帳簿に 算用(計算や勘定)と帳簿を重視するのも松阪商人の特徴です。現存する日本最古の商業帳簿は、富山家の「足利(たしり)帳」だといわれていますが、松阪商人の多くは、簡単な大福帳だけでなく、現代の貸借対照表に対応できるような複式簿記で、帳面をしっかりきっちり付けていました。番頭や手代は、帳面を前に日々一心に算盤で計算していたでしょう。

ぬ 縫い物も料理も得意な男衆(おとこし)さん 江戸の店は、支配人から子供衆(こどもし・丁稚)まで、男性だけで切り回すのが松阪商人の基本パターン。料理や縫い物などの仕事も、男衆と呼ばれる専任の男性たちが行いました。子供衆・手代・番頭たちが店で活躍する裏方を支えた男たちです。

る ルーツを辿れば多くは近江 松阪城を造り町を拓いたとき、城主の蒲生氏郷は、故郷である近江の日野から多くの商人も率いてきました。今も松阪駅から城跡へ向かう商店街には「日野町」の名が残ります。大坂商人・近江商人・松阪商人が三大商人と言われますが、松阪商人の多くは近江をルーツに持っていたのです。

を 小津安二郎も松阪弁 昭和の映画監督として世界的な名声を持つ小津安二郎は、豪商小津家の一族です。父が東京・深川にあった小津家の肥料問屋の支配人をしていた頃に生まれ、幼児から青春期を松阪で育ち、一時期は松阪で小学校の教師をしていました。、彼の映画にも松阪弁のリズムがあるとも言われています。

わ われもわれもと縞模様 多くの松阪商人の商いの礎になったのが松阪木綿。縞模様の藍染め木綿は「粋だ」と江戸っ子の心をうばい、、「三人に一人は松阪木綿」といわれるほど売れたそうです。日本橋大伝馬町には、伊勢国の木綿を商う店が集まり、江戸の人口が100万人といわれた時代に、年間55万反を売り上げたといわれます。

か 為替と羽書はお任せを 江戸は金建て・大坂は銀建てと通貨が違うため、江戸時代の経済活動には不便が生じていました。また、江戸・大坂間の大量の現金輸送は危険を伴います。これらの不便や不安を解消した為替というシステムは、三井高利が幕府に献策して請け負ったものです。また、幕末には松阪商人の出した紙幣(羽書)は最も信頼性のあるものとされました。彼らは、国の経済を動かすほどの力を持っていたのです。

よ よそ見をせずに本業一筋 投機的な商いに手を出さず、本業に打ち込むのが松阪商人の基本姿勢とされました。まして、遊びや道楽などにうつつを抜かすのはもってのほか。長谷川家の支配人は「起請文之事」という誓約書を書き、「本業だけに励みます」と誓っています。

た 大名貸しは両刃(もろは)の剣 江戸時代、商家衰退の最も多い理由が「大名への貸し倒れ」でした。返済が出来なくなった大名は、「お断り」という一方的な債権破棄を行うことができたのです。大きな金額が動き、人脈的にも利点の多い大名貸しは魅力的ですが、大きな危険を伴っており、中には家訓で大名貸しを禁じている商家もありました。

れ 連絡大事 手紙書きます三日ごと 仕事に報告・連絡・相談が大事なのは今も昔も同じ。それぞれの店の支配人は、主にこまごまとした報告の手紙を書くのも勤めの一環でした。店によって三日ごと、五日ごとなど決まりがあり、支配人たちはせっせと主への手紙を書いたのです。主人の方も返事の手紙や指示書などを書きましたから、松阪・江戸間の手紙のやり取りは頻繁に行われていました。

そ 総合商社を先取りしたよな品揃え 本業を大事にしながらも、需要があれば供給の方法を探るのが松阪商人です。次第に多種類の品物を商うようになり、数多くの店を構えるようになりました。木綿・紙・米・酒・味噌・呉服・漆器・両替・茶…と、現代の総合商社さながらの品目を商う松阪商人も少なくありませんでした。

つ 次の跡取り誰にしよ 後継者を決めるのは家にとっての大きな問題。家の安泰のためには、商才があり、堅実な跡取りを選ばねばなりません。一方で、後継者選びで遺恨を残すのも良いことではありません。賢い跡取りを育てる工夫をしたり、将来性のある養子を迎えたり、或いは一族が共同で経営を引き継ぐなど、さまざまな方法が考えられました。

ね 年季を積めば「初のぼり」 子供衆から手代に昇進し一定の期間勤めると、「初のぼり」という松阪の本家に挨拶に行ける制度がありました。初のぼりを経て一人前となり、その後、店からの餞別を受け取り長期休暇をもらって実家へ帰ることが出来たのです。一旦、雇用の契約が切れることになるので、そのまま解雇となる従業員もありました。続けて勤務すると「二度のぼり」「三度のぼり」もあり、番頭や支配人になっていきました。

な 仲良くすべし、地縁・血縁・嫁の実家(さと) 火災や地震、泥棒など人生に災難はつきもの。生き馬の目を抜く江戸の町では、同業者の横やりもしばしばありました。それに加えて、商いが大きくなってくると、幕府や藩との軋轢や横暴も降りかかります。そんな窮地を助け合うのは、同じ地域の商家や親戚・姻戚関係のある家の人などに限られてきます。日頃の付き合いが大切です。

ら 辣腕も堅固な信用あればこそ 羽書(民間が発行した紙幣)を出したり、為替などの金融業務を任せられるなど、辣腕を振るった松阪商人ですが、それができたのも世間の人々からの信用あればこそ。信用を築くのには長い時間を要しますが、壊れるのは一瞬です。信用は、松阪商人たちが最も大事にしたものです。

む 無為に過ごさず あの手この手を考える 三井高利は、兄から江戸出店を止められて、長い間松阪にいました。しかし、その間も無為には過ごさず、出資を集めて利益を分配する株式制度の原型のような方法や、短期で預かった現金に利子を添えて返す銀行の様な資金集めなど、さまざまな手法を考え実践しました。そうして、江戸へ打って出る機会を待ち、準備をしていたのです。

う 氏郷公 よいほの森を町に変え   松阪開府は、信長や秀吉の臣下であった蒲生氏郷が四五百森(よいほのもり)に城を築いたことに始まります。氏郷は、城下町としての守りだけではなく、まちの中央に伊勢街道を通し、近江や伊勢などから招いた商人を住まわせ、十楽を行って商業の発展を図りました。その後、氏郷は会津若松へ移りますが、文武にすぐれた名君として、今も松阪の人々に愛されています。

ゐ 田舎なれども情報通 松阪はまちの中央を伊勢街道が通り、大和や和歌山・熊野から伊勢に向かう街道が合流する場所です。毎日行き来する参宮の旅人は日本中から引きも切らず。彼らが日本中のさまざまな情報をもたらしました。また、江戸や上方の店と頻繁に手紙をやり取りし、地元の商人同士の交流も密でしたから、松阪商人は常に最新の情報を得ていたのです。

の 宣長さんも商家の子 『古事記伝』等を著した国学者・本居宣長は、豪商・小津家の一族でした。でも、商いは嫌いで学問がしたい…困った母は息子に医師の道を開きました。商い嫌いとはいえ宣長は、帳簿を細かに付けて金銭を管理する暮らしぶりや、商売を卑しむ儒教的な考えに反して商いでの金儲けを肯定するなど、松阪商人の一族らしい価値観や哲学を持っていました。

お お国の行方も論じます 身分制度のあった江戸時代ですが、幕末ともなれば経済力と先見性のある商人たちの意向を、武士たちも無下に出来なかったでしょう。射和の豪商・竹川竹斎は、世界情勢や軍艦の情報などに通じ、『護国論』『君君論』など多くの国防の書物を著しました。そして、小栗上野介や大久保一翁ら幕府の重鎮たちの信頼を得、招かれて何度も意見を聞かれました。

く 工夫と我慢で難局乗り切る 商いに難局はつきもの。才覚を活かし工夫を重ねて困難を乗り越える場合もあり、じっと堪え忍んで苦境をしのいだ人もありました。豪商と言われた家々には、さまざまな工夫と我慢の物語が伝わっています。日頃の評判が悪いと飢饉などの際に打ち壊しの標的にされることがあり、幕末には幕府の御用を務めているという理由で、勤王派の暗殺対象にされるなど、豪商ならではの危険もありました。

や 屋敷に出入りの大物ぞくぞく   門口広く商いをする豪商たちの家は、常に多くの人が訪れていましたが、その中には歴史上の有名人も沢山いました。竹川竹斎が勝海舟のパトロン的な存在であったことはよく知られていますが、竹口家の江戸店には、西郷隆盛や勝海舟など幕末の大物たちが日頃から出入りしていました。また、茶の湯の家元・第11代千宗室(玄々斎)は、弟子であった松阪の豪商たちの家にしばしば逗留していたということです。

ま 万両箱がお蔵に並ぶ 豪商と言えば、小判。三井家では地下に小判専用の穴蔵を設けていたということですし、小津家の蔵には泥棒封じの鉄の格子が付けられていました。千両箱では小さすぎると万両箱を使っていた商家もあり、小津家には今も万両箱が残されています。また、長谷川家の家屋が市に寄贈された際、少量ですが蔵から小判が見つかったこともーー。

け 現金掛け値無しに候 三井家が呉服屋を開いたときのキャッチコピーです。客の家を訪れて商品を売り、支払いは節季ごとに受け取る掛け売りが当たり前だった時代、店頭での現金売買は画期的な新商法でした。他にも、反物を売るだけではなく仕立てまで請け負ったり、布の切り売りなど、三井家は斬新な新商法や新サービスを次々行いました。

ふ 富士と店、浮世絵に描きPR 駿河町の三井家の店構えなど、松阪商人の店を描いた浮世絵はたくさん残されていますが、これらは遠景に富士山や江戸城を描き込んで、店のイメージアップを狙うPRの一環でした。引き札や貸し傘、店印など、松阪商人はさまざまな手法で店のPR をしています。

こ 〝子供衆(こどもし)〟はつらいよ 松阪の店の丁稚は〝子供衆〟と呼ばれ、12~3歳から元服して手代になるまでの少年たち。伊勢国の出身で身元の確かな子が選ばれ、親元を離れて団体生活をしました。昼間は店で働き、夕食後は「読み・書き・そろばん」や店の決まりなどを学ぶ厳しい修行期間です。お茶を出し、草履を揃え、荷物を運び… 手代たちから「こども~し」と呼ばれると「へ~い」と返事して駆けてゆかねばなりませんでした

え 「えらいことや!」 おかげ参りとご一新 武士が少なく比較的のんびりした江戸時代の松阪。大きな驚きを持って迎えられたのは、おかげまいりの大群衆が押し寄せたことと、幕末から明治に至る大変革でした。おかげまいりでは道行く人に施行を行い、幕末の鳥羽伏見の戦いでは、京から落ち武者やお女中たちが逃げて来て、町の人たちの不安をあおりました。人々は「えらいことやなぁ」「怖いなぁ」と話し合ったことでしょう。

て 手代は花形 売りまくれ 商いの戦闘部隊は手代たち。三井家の呉服店では、大きな文字で手代の名前を書いた札が天井から下げられ、その下に本人が座って客を迎えました。人気のある手代は花形。競い合うように客をさばき、呉服を売っていたのです。享保10年代後半ごろの三井家には750人程の従業員がいたとのことです。

あ 主は故郷で遊びおり 資本と経営を分離した松阪の商家では、店を支配人に任せ、主は松阪の家で遊び暮らしましたーーとはいえ、主は店から送られてくる手紙や帳簿から経営を把握しなければならず、常に店全体の方向性を考える責任を担っていましたし、同時に書や文学、茶の湯などに通じた一流の文化人でなければならないとされていました。「遊び暮らす」という言葉ほど楽ではなかったようです。

さ 三方に良し 四方に善し 「売り手に良し・買い手に良し・世間に良し」の「三方良し」が商いの目指すところとされています。「世間に良し」とは社会貢献を指します。寺社に寄進を行ったり地元のために溜め池を造るなど、すぐに役立つ貢献の他、文庫(図書館)を開設して地元の人々の教養を深めたり、有意の若者を支援したり…豪商たちの中には、未来という四番目の方向に力を注ぐ者もいました。

き 着物は木綿、遊びは禁止 〝江戸患い〟に気を付けて 質素倹約が松阪商人の身上。木綿の細かい柄のものを着るとか、子供衆どうしの相談ごとや口論を禁じるなど、着るものや行動にも店ごとに細かな制約がありました。でも、質素すぎる食生活は〝江戸患い(脚気)〟になる危険をはらんでいて、注意が促されました。

ゆ 行こう探検、武四郎 北海道の名付け親・松浦武四郎も松阪の出身。紀州藩の郷士の子でしたが、17歳で全国を巡る旅に出るまで、竹川竹斎の家などに出入りしていた記録が残っています。彼がさまざまなことに好奇心を持ち放浪の旅に出たのも、商人の力が強くて自由な松阪の土地柄によるものかもしれません。各地から、伊勢参宮に向かう人に手紙を託して、実家に連絡していました。

め 明治維新を乗り越えて 幕府の御用商人であった豪商の多くは、大政奉還とともに幕府と命運をともにして、多くの財産や利権を失うことになりました。でも、三井家や小津家、国分家、竹口家など、明治維新の苦境を乗り越えて、現在まで続く豪商たちもたくさんあります。

み 「見て育ちました」と原田二郎 原田二郎は幕末に生まれ、明治政府で大蔵省に勤務した後、銀行の頭取などを歴任しました。晩年、資金運用しながら社会福祉活動をする「原田積善会」をつくり、莫大な財産を全て寄付しました。原田は武家の子でしたが、若き日、東京で衣類や人力車のレンタル業で自分や友人たちの学費を稼いだなどのエピソードに、松阪商人の感覚が偲ばれます。「原田積善会」は現在も活動が続けられており、実家も松阪市殿町に残っています。

し 神宮の長いご縁を大切に 松阪は伊勢の隣まち。古くから伊勢国の物産を持ち運んだ神宮の御師の働きで、日本中に伊勢ブランドが知れ渡っていましたし、頼朝や秀吉などが神宮に御厨・荘園などを寄進したことから、その土地と伊勢との繋がりが築かれていました。そうして伊勢神宮を介して長い間積み重なったご縁が、江戸時代になって松阪商人の商いを後押しすることになりました。

ゑ 江戸と大坂・京にも店を 江戸に複数の店を開くだけでなく、松阪商人の多くは京や大坂にも店を持っていました。京では呉服等を仕入れ、大坂では米などを売り、両替商もーー。また、東北にも店を持つ者が多くあり、そこには神宮の御師たちの活躍や源頼朝らの神宮への信仰など、東北と伊勢国をつなぐ長い関わりがありました。日本全国を視野にいれた、多角的・複合的な商いを展開していたのです。

ひ 火の用心、大火続出 〝火事と喧嘩は江戸の華〟とはいえ、地元松阪でも火事は多く、火災で大きな痛手を受けた松阪商人は数え切れない程ーー。「火の用心」と書いた紙を各所に貼り、毎夜火元を確認し、防火用水や類焼を防ぐため蔵に塗る泥を常に用意するなど、家ごとに防火・消火の工夫や努力をしていました。

も 木綿は地元の女わざ 大量に出荷された松阪木綿。松阪近郊は、良い綿が取れる産地であり、染めや織りの技術にも長けていました。古代から、紡績や機織りの技術を持つ一族が住み、神宮の神さまに供える絹や麻も織るようになったと言われています。松阪木綿の織りは地元の女性たちの仕事。農事や家事の合間を縫って、それぞれが好みの縞模様を織り上げ、技とセンスを競っていました。

せ 先祖の遺訓を守ります 家訓や店の決まりをしっかりと守るのが松阪商人です。家訓には、三井家の「宗竺(そうちく)遺書」のように遺訓の形でつづられたものもありました。家訓は、経営理念などの精神的なものから、相続や一族内での利益の分配など、現実的な内容まで多様に書かれていたようです。従業員が守る店の決まりも、決まった日ごとに全員に読み聞かせるなど、後々までおろそかにしませんでした。

ず 水銀は縄文以来の名産品 丹生に産した水銀は、縄文時代から採掘されていたといいます。奈良の大仏鋳造にも使用されたことが有名ですが、古代から水銀商人が活躍し、室町ごろからは、水銀でつくった「伊勢白粉」(軽粉)などの製品が射和や中万など櫛田川沿岸の豪商たちを栄えさせました。残念ながら、丹生の水銀生産量は次第に減少し、江戸末期からは休山に近い状態になっています。

旧長谷川治郎兵衛家

小津清左衛門家

原田二郎旧宅

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